雑記

Twitterでは長すぎることを書きます

読書感想文

約4年前に、オードリー若林の本を読んだ。

感想を是非、オードリーのANNに書いて送ろう!と思ったのだが、時間がなく忘れていて、SixTONESANNを聞き始めて思い出したが、ラジオの雰囲気がわからないのに送るのも良くないなと思い半年が過ぎたので、ここで供養する。

 

この本と出会った2019年の冬、私は社会人になって一年目で、「己は社会不適合者なのか」「アスペルガーなのか」「発達障害グレーゾーンなのか」と思い悩み発達障害に関する本を買ったり、まとめサイトの凸凹ちゃんねるをよく読んだりしていた。

 

私は、芸人が書くエッセイ本というやつが苦手である。本屋に並んでいたらすぐさま通り過ぎるし、週末のお昼の番組で紹介されてるのなんか見たら虫唾が走る。だから絶対にそんなものは読まない、と心に決めていた。

私はツイ廃なのであるが、ある日Twitterで、「オードリー若林の書いた本のこの数ページがとても突き刺さる」的なツイートを見つけた。

普段なら絶対読まない私であるが、仕事まぢ無理…やめたぃ……となっていた私は読んでしまった。その数ページを。そして気になって買ってしまったのである。『社会人大学人見知り学部卒業見込』を。

 

わくわくしながらページを開いた私は、この一節に衝撃を受けてしまった。

このコラムがダ・ヴィンチで始まったのが二〇一〇年の八月。

連載は「社会人二年生」というタイトルでスタートした。

若林正恭, 2015, p.9)

思い出したのだ。高校生の頃、学校の図書館で、「あぁこいつ最近よく見るオードリーとかいう芸人のピンクじゃないほうか。」と思って初回の連載を読んだことを。そして、「社会人二年生」というタイトルが引っかかり読み始めたものの、「何この大人……気持ち悪……」と思って次の月から若林の連載だけは読み飛ばすようになってしまったことを。全部思い出してしまった。

と同時に、高校生の自分が「気持ち悪いな」と思った大人の綴る文章に共感している今(4年前)の自分がとても悲しくなってしまったのだ。10年近く経って、完全に退化してしまった。そう感じた。

本は読みすすめると、とても共感できる話ばかりだった。手酌意味わかんない話やスタバを頼む自分が恥ずかしくて頼めない話。まさにそうだった。職場の飲み会が本当に嫌いで、ミソジニーこじらせたアルハラマンにたくさん苦しめられた。(こいつは今も嫌いだ)

思えば、理由は違えど、私も他人よりモラトリアムを長く過ごした人間であった。若林の文章や考えに、気持ち悪いな、なんてひとっつも思わなかった。むしろ共感しかなかった。それからというもののスクール革命!に出てる若林を見ては、若林も丸くなったんだな……若林はすごいな……私も数年経てば今抱えてる「自分は社会不適合者かもしれない」という悩みは薄くなるのだろうな……と希望的観測を持つ日々であった。

 

あれから4年が経ち、コロナ禍によって良くも悪くも職場の人間関係が希薄になり、抱えていた社会不適合者感も薄まった。自分も人間的には成長なのか退行なのかわからないが、他人と表面的に合わせる、ということができるようになった。

 

本は、就職した当時の自分を思い出すと恥ずかしいのでしばらくは読むことはないだろう。